屋久島の山にながれる“もうひとつの”時間
例年より早めに梅雨が明け、夏が到来した屋久島。
今年も多くの登山者を楽しませてくれたシャクナゲシーズンは、あっという間に終わってしまいました。また来年、どんな楽園風景を披露してくれるのか楽しみです。
梅雨明け宣言がでたと聞き、夏の山の空気に包まれにさっそく奥岳に参ってきましたよ。
投石平まで行くと…
わおー!待ってました、この色彩美っ!
個人的には、シャクナゲ開花以上に初夏の山は彩りを増すと感じています。上の写真には花は一つもなく、すべて色とりどりの新芽たちです。白っぽい色をした葉はシャクナゲ。赤や黄色、オレンジはアセビの新芽です。シャクナゲ満開のピンクなメルヘンワールドより、梅雨明けの夏の色彩美の方が僕は好みです。
大好きな入道雲もモクモクと発生し、しっかり夏が到来していましたよ。
入道雲を見ると、どうしてこんなにも心が踊りだすんだろう。
強い夏の日差しは林床のコントラストを引きあげ、写真の暗部を暗黒にし、一切のネガティブをブラックアウトさせ美しい造形美を浮き彫りにさせます。
しかし、昼下がりの強烈な光が差し込む陽だまりはなぜか哀愁があったりもします。すべての事象には対極の二面性が存在しています。
春一番に開花したアセビの実がぷくぷくに成熟してきました。
毎年、実りを確実にクリエイトする高山植物たちに出会うたびに勇気と希望をもらいます。
いっさい人工物のない奥岳の世界はいつも太古の香りがしています。
陽が傾き山の起伏にそって陰影がのびだす頃、その香りはよりいっそう濃厚となり、どこからともなくメッセージがやってきます。先人はこれを“神の声”とし、山岳信仰を始めたのではないか?と僕は勝手に思っています。
しかし、本当は、里で生きる僕という不自然な生きものが太古の自然に触れたことで、僕に内在している純度の高い自然が息を吹き返し、声をだしはじめたにすぎないのかもしれません。
神社の境内の奥の中心には鏡があります。
お参りに行くと鏡に僕が写っています。
「かがみ」という字の「我(が)」を取り除くと「かみ」になります。
親のしつけや学校、会社でこびりついてしまった人間中心的な思考パターンや我欲を忘れるほどに山を夢中で歩けば、人はみな神になってゆくのかもしれません。
山の奥深くに鎮座する巨石の上で座っていると、花崗岩から発せられるほんのり温かい熱がたまらなく心地いいんです。そして心を樹海と大海に向けていると、どこからともなく聞こえてきます。
それはカミの声なのか。僕の心の声なのか。はたまた、地球の声なのか。
現代社会が見ようとはしない区別や分離のない悠久の世界からその声はやって来ているように今は思っています。
この島の奥深い山岳には、そんな摩訶不思議なことを思いついてしまう時空が広がっています。そこを吹く風には、太古から脈々と続いている緩やかな「もう一つの」時間が、目には見えないけど確かに流れているのです。
山って、やっぱり最幸だな。