古居智子さん/作家

300余年前、屋久島に上陸したカトリック宣教師シドッティの生涯を顕彰する記念館設立へ向けてクラウドファンディング/屋久島シドッティ記念館設立準備委員会代表

カトリック屋久島教会の敷地内に、江戸時代に屋久島へ上陸したカトリック宣教師シドッティの記念館を、クラウドファンディングで設立しようとする動きがある。

屋久島シドッティ記念館設立準備委員会代表の古居智子さんは、屋久島在住の作家。島に拠点を置きながら、「密行 最期の伴天連シドッティ」、「ウィルソンの屋久島-100年の記憶の旅路」「屋久島 恋泊日記」「屋久島 島・ひと・昔語り」など、屋久島の文化や、島に関わりのある人物などを題材にこれまで数々の著書を執筆してきた。

シドッティ研究者”コンタリーニ神父”との出会い。そして本を出版へ。

28年前に家族で米国から島へ移住した古居さんは、カトリック屋久島教会に赴任していたイタリア人の故コンタリーニ・レンゾ神父との交流のなかで、”シドッティ”の存在を知ったという。

江戸時代中期に、イタリアからフィリピン・マニラを経て、屋久島に上陸したカトリック宣教師”ジョバンニ・バッティスタ・シドッティは、藤兵衛たち島民との温かい交流の時をもつが、すぐに捕らえられ江戸に護送された。当時、侍講として幕政を主導する立場にあった江戸時代の政治学者“新井白石”は、シドッティの尋問を基に「西洋紀聞」や「采覧異言」を書き上げた。のちにシドッティは幽閉され、日本に来てからわずか6年後に47歳という短い生涯を閉じたのだが、鎖国中の日本に国際的な視点をもたらした歴史的な人物といえる。

「夫が外国人ということもあり、私の人生のテーマはずっと“異文化交流”でした。東洋と西洋の出逢いというのでしょうか。島に来て、シドッティ研究者でもあったコンタリーニ神父と家族ぐるみのお付き合いが始まり、“シドッティ”という人物が、江戸時代随一の知識人であった新井白石の心を動かした存在だったことを知り興味を持ちました。調べて行くうちに、これは本に著し世に知らせるべき歴史の一幕だと思い、7年間かけて少しづつ資料を集めました」

奇しくもシドッティ上陸地の恋泊に住む古居さんは、シドッティの生涯を綴った「密行 最期の伴天連シドッティ」を出版し、のちにイタリア語、フランス語にも翻訳された。時を同じくしてシドッティの遺骨が東京文京区の切支丹屋敷跡地で発見されたりと、まるでシドッティに導かれているかのようにさまざまな出来事に後押しされながら、シドッティの故郷イタリアのシチリア島やローマなどでも出版記念講演を行った。古居さんは、300年の時を経てシドッティの魂を故郷へ連れ帰ったのかもしれない。

小さな教会の隣に、シドッティ記念館を。

カトリック屋久島教会は、島の南端の小島集落から海へと続く長閑な田園風景の中に建っている。
石造りのコンタリーニ神父のモニュメントが立つ敷地内で、古居さんら記念館設立委員会のメンバーは、記念館予定地の草刈りをするなど手入れをしながら、日々話し合いを重ねている。

「たくさんの痕跡を残したまま殉死したシドッティの人生を辿っていくと、“もしかして彼は今の世に何かを伝えようとしているのではないだろうか”と感じることがあります。シドッティが歩んだ人生には、苦難と希望が入り混じった壮大なドラマがありますが、その歴史的な出来事は、まぎれもなく屋久島の南の海から始まりました。だからこそこの場所に記念館を設立し、多くの方に彼の生涯を知ってもらいたいのです」

小さな教会の屋根に掲げられた十字架。その足元に立ち、山の方へと振り返ると、まるで聖母マリアが幼子イエスを抱いているかのような形の巨石が聳え立つ“耳岳”が見える。そして背後からは、シドッティ上陸地である入江に打ち寄せる波の音が聞こえる。300余年前、この地に降り立ったシドッティも、きっと同じ光景を目にしていただろう。

(取材:Written by 散歩亭 緒方麗)

【屋久島シドッティ記念館設立準備委員会】 https://yakustudio2020.wixsite.com/sidotti
※寄付の受付もホームページから。

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